デジタルネイチャー 脱近代的視点がもたらす社会変化について

書籍

 今回は「デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂」を読んで学んだことを紹介していきたいと思います。この本は落合陽一氏の2冊目の主著でとても難解と言われているので、私ではうまくかみ砕くことができていない部分があるかもしれないです。できるだけ学んだことを読者にわかりやすく伝えられるように気を付けながらこの記事を書いていきたいと思います。

 デジタルネイチャーの考え方についても少しふれますが、デジタルネイチャーそのものではなく、デジタルネイチャーを踏まえた具体的な社会変化について詳しく書きます。

デジタルネイチャーとは

 落合陽一氏は筑波大学デジタルネイチャー研究室を主宰しています。本書ではデジタルネイチャーとは次のように説明されています。

デジタルネイチャーとは、生物が生み出した量子化という叡智を計算機的テクノロジーによって再構築することで、現存する自然を更新し、実装することだ。そして同時に、<近代的人間存在>を脱構築した上で、計算機と非計算機に不可分な環境を構成し、計数的な自然を構築することで、<近代>を乗り越え、言語と現象、アナログとデジタル、主観と客観、風景と景観の二項対立を円環的に超越するための思想だ。(本書引用)

   普通はこれを読んだだけでは何を言っているのか分からないと思います(笑)。私なりの解釈では、これだけコンピュータやスマートフォンで人間のあらゆる機能を拡張できるようになった世の中であるため、これまでの資本主義、政治、法律などと様々なものを新たに再構築する必要があり、そのために必要な思想なのだととらえています。

 数理的なことはここには詳しく書きませんが、二進数で動くコンピュータと4進数で記述されるDNAを同じシステムとして見て、世界のあらゆるものをコンピュータで記述できるようになると<自然>と<人工>の対立が揺らぐということを言っているのだと思います。

 人の進化や社会制度の更新の速さを圧倒的に超えるテクノロジーの進化によって世の中の様々なものが対応しきれていないように感じています。しかし、ここまで発達したテクノロジーが、また昔のように逆戻りすることはおそらくないでしょう。そんな今だからこそ、計算機と人間が自然に親和している世界での新しい思想というのは十分に学ぶ価値があると思います。

 では、デジタルネイチャーを踏まえた脱近代的視点がもたらす社会変化について面白かったものを紹介していきます。

2極化する働き方

 AIが発達する社会で人間の仕事がなくなると考える人が多くいるが、「AIが職を奪う」のではなく正しくは、「コンピュータを専門とする人がAIを駆使して様々な分野の専門家を超えていく」ものだと落合氏は言っています。

 要は、人はAIと親和しながら生きていくようになると考えることができます。そんな世界でデジタルネイチャーでは人々の生き方は2極化すると考えられています。

1 AI+BI(ベーシックインカム)型  → 機械の指示のもと、働くベーシックインカム的な労働
2 AI+VC(ベンチャーキャピタル)型 → 機械を利用して新しいイノベーションを起こそうとするベンチャーキャピタル的な労働

 これは今のアメリカ社会を考えれば理解しやすいと思います。よくAIのもとで働く例えとしてUberがあげられますが、知らない人のために説明すると、ドライバーとして登録するだけで、あとはAIの指示に従ってタクシーのように働くことができるというサービスです。集客も、道順も、すべてAIが最適化しその指示に従うだけなので、まさにAI+BI型の労働に当てはまります。

 対して、シリコンバレーの企業で働く人や企業は、AIを用いて新たなテクノロジーを日々開発していきます。彼らのおかげで市場が拡大し、人々がその恩恵を受けることができています。彼らのような人がAI+VC型の働き方と言えるでしょう。

 当然遅かれ早かれ日本にもこの流れは来るものと思います。特に近代の撤退戦を強いられている日本では顕著に2極化が進んでいくと落合氏は考えているようです。

市場の拡大を目指す人間と、市場拡大の恩恵を緩やかに受ける人間が明確に分けられた世界だ。(本書引用)

 この両者の価値観の共存は難しいため、AI+VC型の社会についていけなくなった人が、AI+BIがたの社会に移住して余生を過ごすことになるようです。こうして世の中がさらに進化を続ける形が出来上がります。

 

日本的な大企業が不利になる ~オープンソースと資本主義~

 とある番組でこんなことを聞いた覚えがあります。「今、日本の技術者が海外に狙われている!!」。ある東大のロボットについての研究に目を付けた海外(おそらく中国だった気がする)の企業がその技術を買い取ったという話です。

 日本的な考え方の中に、自分たちの技術は企業の中だけのもので、その企業独自の技術力で稼いでいくという考え方があるように思えます。対照的に、海外のベンチャー企業は自分たちの会社が買収されることに対して次のように考えるようです。「これで世界が良くなるならば」と。

 オープンソース化した社会で、こういった日本企業のような考え方は通用しなくなっていきます。

世界全体の利潤をインフラベースで考えると、オープンソースの影響力はとてつもなく大きい。今や市場の寡占を目指す資本主義モデルはオープンソースなしでは立ち行かなくなっている。その一方でオープンソースもまた、資本主義の株式市場が生み出すキャピタルゲインの余剰なしには成り立たない。
・・・
オープンソースが拡大した社会は共産主義的な社会ではない。その真逆で、むしろ市場原理の極限ともいえるような、イノベーションが短期間でリセットされ、常にゼロベースの競争を余儀なくされる世界だ。それは現在のアントプレナー的な生き方と似たものとなる。(本書引用) 

  これは資本主義というものが内側から変わってきていることを意味します。

従来の資本主義 →「持てる者」が知識や技術を蓄積し、市場価値をどこまでも上昇させる
オープンソースの精神を内包した資本主義 →「持てる者」が積み上げた価値が短期間でリセットされ、万人に共有される下駄となる。  

 要するに、新しい技術は共有され誰もが使えるものとなります(技術のコモディティ化)。それを繰り返しながら市場が成長していくと、そこからとても大きな剰余価値が生み出されます。逆に、その市場とは独立した別の市場で自分たちの独自技術で戦おうとしても、オープンソースの波にのまれるだけで置いて行かれるだけです。

 ではこのような社会ではどのような人材が求められるのでしょうか。従来のように知識の蓄積よりも大切なものが見えてくるはずです。本書には次のように書かれていました。

繰り返されるコモディティ化の断絶を乗り越え、継続的に新しいテーマにコミットし続ける能力が求められる。(本書引用)

 

モチベーション格差

 前の段落で書いたように、これからの社会が抱える格差は経済資本の格差ではなく、「モチベーション」と、そしてその根底をなす「アート的な衝動」を持ちうるかの格差だと落合氏は言う。

文化資本の再分配には、資本以上に巨大な格差が存在する。例えばある家には1万冊以上の蔵書があり、ある家には本が一冊もないといった格差は、現代においてもよく発生している。裕福な家庭の資産が貧困家庭のせいぜい数十から数百倍程度であることを考えると、これは貧富の差以上に巨大な格差である。 (本書引用)

  新しい社会では人に求められるものも変わってくるようです。2極化には金銭的な資本よりもモチベーションの違いが大きく左右します。そして、モチベーションの格差は金銭的な格差よりも何十倍、何百倍となることさえあります。

 今は好きなことをとことんやり通すことが良いと最近のビジネス書には書いてありますが、これらのことが裏付けとなっているのかもしれませんね。

 

本の紹介

 この本では僕が見てきたさまざまな領域に及ぶ活動ー計算機科学、応用物理学、エンジニアリング、アート、デザイン、ビジネスを通じて実現させようとしている<計数的な自然>、デジタルネイチャーの世界観を描きながら、脱近代的視点がもたらす社会変化や、それを踏まえた提言、分析、思考を行っている。(本書引用)

 この本は落合陽一氏の主著とあって、とても難解な本でした。しかし、一冊目の主著の「魔法の世紀」も前に読みましたが、それよりかはデジタルネイチャーの方が読みやすかった気がします。もう一度「魔法の世紀」も読み直してみたいと思います。

 NezsPicksのWEEKLY OCHIAIで落合陽一さん本人も、「この本は何が書いてあるかわからない。一日30ページしか読めない。」と言っていました。3000円もするこんな本でもたくさん売れて話題になるのは奇跡とも言っていました。

 興味のある人はぜひ挑戦してみて下さい。

 

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